思い出を共有するとは

『お母さんの最後は、本当、凛としてて、素晴らしかったよ。俺たちに勇気を与えてくれたね。』

私の亡き母の一番下の弟である叔父が、テレビ電話先で、しみじみと話す。私が生まれた時からよく可愛がってくれた叔父とは、兄弟の様な仲だ。日本を離れ太平洋を挟んで遠くに住んでいても、携帯電話を指一本クリックすれば、今こうして、いつでもすぐに繋がれる時代の恩恵は大きい。

『そうだね。お母さんは、強かった。そして、偉かった。』と返事を返しながら、喉の奥がグッと詰まってくるのを感じる。母が亡くなってもう一年半以上経ったのに、まるで昨日のことの様に、母の最期が思いだされ、また、涙が出てくる。

『あれ以上の最高の最期なんてないよ、お母さん。』と心の中で呟く。彼女が見せてくれた言葉、態度、しぐさ、表情、そしてかすかな息づかいにさえも、皆に勇気を与えてくれるほどの、命がけの優しさと愛が込められていた。どうしたら、あんな風に、末期癌の苦難に耐え貫けられたのだろうかと、何度も考えてみたが、私の想像もおよば無い。叔父と私は、亡き母や祖父母の思い出話に、よく延々1時間ほど費やすことしばしば。まるで、勇気の源に辿り着きたいかのごとく、話に熱がこもる。2019年の夏に母が他界して以来、叔父の長電話なるたるものが、始まった。最近、叔父の存在は、私にとってさらに貴重な物となってきている。人間は誰しも、常に変化変容を遂げている。でも、なぜこの変化が起こっているのか、そして、それは一体私の人生にどういう意味を持っているのだろうか、ふと考える。私の潜在意識が何を必要としているのか、あるいは、何を起こそうとしているのか、わからないなりにも、知りたいと思う。おそらくいつかは自分も将来立ち向かわなくてはならぬ死を意識しているのは、間違い無いであろう。でもそれだけでも無い。

叔父は、私より20才年上だが、彼の名前を呼ぶときは、名前に『ちゃん』を付けている。日本の文化では、目上の人には、そういう呼び方はまずしないが、生まれた時からそう呼んでいるので何の違和感も無い。叔父の趣味は、油絵、魚釣り、日曜大工、音楽鑑賞、歌作りやギターやドラムの演奏など多岐に渡り、お陰で、小さい頃は、よく美術工作の宿題を手伝ってもらったものだ。本当に助かった。亡き祖父と同様、芸術的かつ繊細で、物腰も柔らかな叔父の爪の垢でも煎じて飲みたいほどだが、特に「深いところに入れる」能力は見習いたいと、密かに観察している。

先日、叔父が、私の知らなかった母の思い出話をしてくれた。叔父が高校生の頃、ある日、母が沢山のグレープフルーツを家族みんなに買ってきてくれたそうだ。半分に切ってスプーンで食べる方法も披露してくれたらしい。当時のグレープフルーツの輸入規制でほとんどの日本人がそうであった様に、叔父はそれまで、グレープフルーツは見たことも食べたこともなかったそうだ。初めて食べたグレープフルーツは、とても甘くて美味しかったらしい。それ以来今でも、グレープフルーツをみるたびに、母のことを思い出すそうだ。

『お母さんは、いつも時代を先取りしていく様な人だったね。何でも新しい物をよく取り入れていたよ。いつも一生懸命だったね。』と話す電話の向こうの叔父にうなずきながら、

『そのシーンとっても想像できる。でも、若かった頃のお母さんに会ってみたかったな。覚えてる?お母さん、沢山の帽子を持ってたの?お洒落というか、独自のスタイル持っていたよね!』思わず笑みをふくんでしまうほど、愉快でどこか可愛い母だった。それはさておき、グレープフルーツでそんな印象的な感動を叔父にもたらしたことを、母が知っていたかどうかは、定かでは無いが、一生に残るほどの記憶になった訳は、私にも十分に伝わってきた。

一生に残るほどの記憶といえば、私にも沢山ある。私が小学校時代、我が家では、土日以外は、テレビは禁止されていた。これも教育熱心だった母のアイデアだった。しかし、稀に例外もあった。ある夕方、叔父からの電話が鳴る。「今晩、サウンド・オブ・ミュージックという素晴らしい映画が放映されるから、ぜひ見てごらん。」という用件で、わざわざ電話をかけてくれたのであった。お陰でその晩、家族全員で異例の映画鑑賞となった。おそらく私は10才くらいであろうか。映画に感動したのも、もちろんだが、それと同様、頼もしい救世主的な叔父に連帯感を覚えたのを記憶している。それ以来、今でもサウンド・オブ・ミュージックをみるたびに、当時の叔父からの電話を思い出す。

叔父と私のそれぞれの記憶は、一瞬の出来事で決してドラマチックでは無い。でもなぜそれほど強烈に残ったのであろうか。どちらの事例も共通点がある。一つは、グレープフルーツを買ってきた母も、電話をかけてくれた叔父も、相手を喜ばそうという一心で、行動したということだ。二つ目は、現状を打破するかの様な、何か新たな変化をもたらす要素が含まれていたという点だ。つまり「期待通りに」ではなかった点だ。

胃癌の診断から亡くなるまでの約3年間という月日の中で、母は、一度として、弱み、心配不安、そして体に関する愚痴など一切言わなかった。それは、全く「予想外れ」の行動だった。一般的な癌闘病の絶望的なイメージとは無関係に、母は、通常通りに、ハワイアンダンス教室に通い、地域の老人会のまとめ役を務め、家族の世話をし、そして頻繁にカナダに住む娘の為に、日本の食材など一杯に詰めた段ボールのケアパッケージを送り続けた。さらに、癌が転移しているにも関わらず、娘に会う為カナダまで、訪ねてきてくれた。滞在中の3週間は、しょっちゅう夜鍋して沢山の料理を作り、ハワイアンダンスを私の友人達にも披露してくれた。母は、常にドンと構えた母であった。それに比較して、私と言えば、オロオロして涙したり、焦ったり、悲しんだりと、いてもたってもいられなかった。

『お母さん、怖く無い?』と何度も母に聞いた。

母はいつも笑って、落ち着いて、

『大丈夫よ。心配いらないよ。私は、絶対に諦めませんよ。あなた達の為にまだまだ頑張ります!』

と言い続け、その宣言の様な言葉を最後の最後まで実行し続けた。凄かった。勇気をもらった。

デンマークの哲学のセーレン・キルケゴールの名言に、「人生は、後ろ向きにしか理解できないが、前を向いてしか生きられない。」というのがあるが、まさにその通りだと実感する。叔父と母の思い出を共有したり共感することは、今自分の糧となって、現在の人格形成や将来の自分がとるべき行動に影響を及ぼしていると感じる。

さらに、面白いことは、それぞれ叔父と私は、自然発生的に、母の肖像画を描き始めたことだ。よくテレビ電話で、お互いの絵画の進行状況を報告したり、絵に関する質問をしあったり、「展覧会してみたら」と励まし合ったりする。先日も、50号ほどの大きなキャンバスに、叔父が私の肖像絵を手掛けているのをみて、とても感動したものだ。叔父は、母の肖像画に関しては、「まだ、感情が入りすぎて、描けない。しばらくかかりそうだ。」と言っていた。アートというものは、心そのものだ。

最近の行動科学の研究で面白いものがある。脳内の基礎的な記憶神経メカニズムも、最近の機能的MRIの様な画像技術と認知科学の従来の方法の組み合わせによって、特定の行動反応と対応する脳領域における活動パラメーターの間の顕著な相関関係が明らかにされてきている。例えば、ある事象に対応した神経活動が脳内で再生されたときに、将来の挿話シュミレーションに対応する神経活動の一部、さらには発散的思考プロセス( 考えられる多くの解決策を探究することによって創造的なアイデアを生み出すために使用される思考プロセス)なども同時に再現されるということが解ってきている。つまり記憶を辿ることは、創造性に重要な役割を果たしているようであると、あらゆる研究が示唆している。もしかして、こうして叔父と電話でやりとりをし始めたのには、単に、亡き母を偲ぶ以外の他の理由があるかもしれない。私の潜在意識が何を欲して、何処に向かわせているのか、想像してみると面白い。もっとクリエイティブになりたいという自分が今ここにいる。

理由は何にせよ、次の叔父との電話が楽しみだ。思い出を共有することは、生きていく為に必要な存在価値そのものに、つながっていると考える。

Scientist (Ph.D. in Public Health, NYU & post-doc in Cancer Epidemiology, Columbia University), Founder of Vancouver Arts Colloquium Society, & Social Artist.